基元節前の聖和は犠牲の十字架なのか
基元節を前にアボジが忽然と聖和されてしまったことで、大多数の祝福家庭は茫然自失となったはずです。
アボジは生前、ご自分が93歳、104歳、117歳、あるいは120歳で霊界に逝かれるだろうと預言されました。
人間の責任分担如何によってその時期は変化しますが、基元節で完成期の聖婚式を挙行することは共通の大前提でした。
オモニは聖婚60周年の集会で、「真の母だけが基元節をゴールした、真の父の生涯は地上で完成できなかった」という表現をされました。
「1095日の侍墓精誠」とは、「基元節を地上で奉献できなかった失敗」を執り成す意味があったのです。
かつて分派認定された駒場グループは、現在聖和グループと名称を変更して活動しているようです。
基元節前のアボジの聖和に宗教的な意義を見出し、独自の教義を構築したからです。
宗教的意義とは即ち、私たちの責任分担不履行故に、犠牲の祭物としてアボジが聖和されたというものです。
あたかもキリスト教が十字架に贖罪の意義を見出したように、基元節を目前に逝かれたアボジの聖和にも、贖罪の意義があるというのです。
アボジの聖和を「失敗」と捉えるオモニとは対照的に、食口の罪をあがなう自発的な犠牲だという解釈が、一定数の食口を惹き付けるのでしょう。
ところがイエス様の十字架とアボジの聖和には、決定的な違いがあります。
十字架があらかじめ神様と協議して決定された二次的摂理であったのとは異なり(ルカ9章28-31)、アボジは最後まで生きて南北統一を果たそうとされていました。
「最後の祈祷」なる動画が公表されましたが、「すべてを成した」という祝祷とは裏腹に、最悪の朝鮮半島危機が展開されています。
また十字架と復活がセットであるのと対照的に、アボジの聖和後8年が過ぎても、復活もペンテコステも起きませんでした。
そもそも聖婚すら許されず殺害されたイエス様と、人類最初の真の父母・真の家庭を宣布された再臨主に、同一の神の計画が適応されるとは限らないのでしょう。
基元節は完成期の聖婚式というみ言葉に立ち返ると、「中断なき前進」でオモニが何をなさらないといけなかったかは自明です。
死が二人を分かつとしても、霊肉の聖婚式を挙行してでも、蘇生(1960年)・長成(2003年)・完成(2013年)の聖婚式を完成させる責任があったのです。
アボジは何の前触れもなく忽然と逝かれただけでなく、3日、40日…という原理数を経ても再臨復活される兆しすらありませんでした。
聖和後の混乱と絶望から、「お父様の聖和にはちゃんと意義があった」と信じたい気持ちは理解できます。
何かの条件を立ててアボジが再臨できるのなら、どんな犠牲を払ってでもお目にかかりたいというのが、全祝福家庭の共通の願いでしょう。
後付けの宗教解釈を排除するなら、イエス様の十字架も基元節前の聖和も、「悲惨」の一言に尽きます。
統一家の分裂は、悲惨な現実の中で希望を見出したいという各々の模索に他なりません。
分裂した各派は、「希望はここにしかない、それが理解できないのが残念だ!」と嘯きますが本当にそうでしょうか?
「私たちだけが正しい!」と教派争いに没頭したところで、完成期の聖婚式が成されなかった現実を変えることはできません。
時間をかけてその現実を受け入れたとき、八大教材という遺言の価値を再発見するのです。
本来の神の計画を知ることによってしか、復帰摂理の正常軌道に戻ることはできないのでしょう。
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アボジは生前、ご自分が93歳、104歳、117歳、あるいは120歳で霊界に逝かれるだろうと預言されました。
人間の責任分担如何によってその時期は変化しますが、基元節で完成期の聖婚式を挙行することは共通の大前提でした。
オモニは聖婚60周年の集会で、「真の母だけが基元節をゴールした、真の父の生涯は地上で完成できなかった」という表現をされました。
「1095日の侍墓精誠」とは、「基元節を地上で奉献できなかった失敗」を執り成す意味があったのです。
かつて分派認定された駒場グループは、現在聖和グループと名称を変更して活動しているようです。
基元節前のアボジの聖和に宗教的な意義を見出し、独自の教義を構築したからです。
宗教的意義とは即ち、私たちの責任分担不履行故に、犠牲の祭物としてアボジが聖和されたというものです。
あたかもキリスト教が十字架に贖罪の意義を見出したように、基元節を目前に逝かれたアボジの聖和にも、贖罪の意義があるというのです。
アボジの聖和を「失敗」と捉えるオモニとは対照的に、食口の罪をあがなう自発的な犠牲だという解釈が、一定数の食口を惹き付けるのでしょう。
ところがイエス様の十字架とアボジの聖和には、決定的な違いがあります。
十字架があらかじめ神様と協議して決定された二次的摂理であったのとは異なり(ルカ9章28-31)、アボジは最後まで生きて南北統一を果たそうとされていました。
「最後の祈祷」なる動画が公表されましたが、「すべてを成した」という祝祷とは裏腹に、最悪の朝鮮半島危機が展開されています。
また十字架と復活がセットであるのと対照的に、アボジの聖和後8年が過ぎても、復活もペンテコステも起きませんでした。
そもそも聖婚すら許されず殺害されたイエス様と、人類最初の真の父母・真の家庭を宣布された再臨主に、同一の神の計画が適応されるとは限らないのでしょう。
基元節は完成期の聖婚式というみ言葉に立ち返ると、「中断なき前進」でオモニが何をなさらないといけなかったかは自明です。
死が二人を分かつとしても、霊肉の聖婚式を挙行してでも、蘇生(1960年)・長成(2003年)・完成(2013年)の聖婚式を完成させる責任があったのです。
アボジは何の前触れもなく忽然と逝かれただけでなく、3日、40日…という原理数を経ても再臨復活される兆しすらありませんでした。
聖和後の混乱と絶望から、「お父様の聖和にはちゃんと意義があった」と信じたい気持ちは理解できます。
何かの条件を立ててアボジが再臨できるのなら、どんな犠牲を払ってでもお目にかかりたいというのが、全祝福家庭の共通の願いでしょう。
後付けの宗教解釈を排除するなら、イエス様の十字架も基元節前の聖和も、「悲惨」の一言に尽きます。
統一家の分裂は、悲惨な現実の中で希望を見出したいという各々の模索に他なりません。
分裂した各派は、「希望はここにしかない、それが理解できないのが残念だ!」と嘯きますが本当にそうでしょうか?
「私たちだけが正しい!」と教派争いに没頭したところで、完成期の聖婚式が成されなかった現実を変えることはできません。
時間をかけてその現実を受け入れたとき、八大教材という遺言の価値を再発見するのです。
本来の神の計画を知ることによってしか、復帰摂理の正常軌道に戻ることはできないのでしょう。
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今もかすかに耳に残る言葉
「お父様は、お母様の愛が無ければ生きていけない。」
韓氏オモニの愛は、どこに向かって行ってしまったのでしょう。
「お父様は、お母様の愛が無ければ生きていけない。」
韓氏オモニの愛は、どこに向かって行ってしまったのでしょう。
Re: タイトルなし
こじかさん
> 「お父様は、お母様の愛が無ければ生きていけない。」
霊界でいまどんな心境でお過ごしなのか、ただ気がかりです…
> 「お父様は、お母様の愛が無ければ生きていけない。」
霊界でいまどんな心境でお過ごしなのか、ただ気がかりです…